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秋山 真邦 著


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コース設計家の歴史



 彼らの中から、最初に本格的な設計を手がけたのがH.N.ウェザレッドである。息子のロジャーと娘のジョイスは球史に残る名選手に育ったが、彼自身、労著「ザ・パーフェクト・ゴルファー」(1931年刊行)によって不滅の名を残す。その一章にこう書かれてある。
 「内陸にコース建築の話が持ち上がって、私のところに設計の依頼が舞い込んだ。それまでホームコースのロイヤル・ドーノックに別荘を構えた私は、長い歳月をかけてリンクスの研究に打ち込んできたが、いい機会だと思ってケンブリッジ、オックスフォード両大学にいる設計研究家仲間に協力を仰ぎ、緊張に打ち震えながら図面を引き始めた。自分は自然の摂理に従って『あるがまま』を尊重してきたが、いざ人工的コースを設計するとなると、これが予想以上の難事、幾度となく図面を破り、ついには設計そのものまで辞退しようかと考えた。つくづく感じたことだが、自然の起伏に敵うものが存在するはずもなくコース設計とは神をも恐れぬ所業だと実感させられた」
 この記述から推測すると、ウェザレッドが両大学の仲間内では最初に設計料を頂戴した人物だと思われる。もちろん、彼以前にもプロの始祖と言われるアラン・ロバートソン、あるいはトム・モリス・シニア、ウィリー・パーク・シニアなど、何人かのプロがコース設計を副業として、それなりに評価されるコースを残してきた。あとに続いたハリー・バードン、ジョン・ヘンリー・ティラー、ジェームズ・ブレイド、サンディ・ハードたちも設計を副業としたが、彼らの仕事は経験と直感が武器であって、図面に詳細な数字が書き込まれることはなかった。一方、若い学者たちは地形学の表記を用いて、現在の設計図の基礎を作り上げていった。

 ノーサンプトンの役人の子として生まれたハリー・コルトは、アリソンより13歳年上である。従って同じ大学で学んだものの、当初は二人が顔を合わせる機会もなかった。ところが両名ともユニフォームの鮮やかな紺色に由来して「ブルー」と呼ばれたゴルフ部に在籍したため、卒業生と現役選手が一緒になって宿敵ケンブリッジ大学と戦う「ブレジデンド・パター」に出場して知り合った。また、スコットランドの大学対抗戦でも同じチームのメンバーになると、さらには全英アマの予選会でも共に戦った。つまりゴルフが縁で2人のあいだに深い信頼と友情が築かれていった。


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 学内に新設されて間もない「造園学部」を卒業したコルトは、ロンドン郊外のサニングデール・クラブに就職、32歳の若さで書記に起用された。彼がコースに就職したのも、惚れたゴルフの近くで人生を送りたいと考えた一心である。彼は1906年の全英アマの準優勝者であって、1908年と11年にも準々決勝まで進出したほどの名手である。同級生から「ゴルフがなければ生きられない男」と揶揄された中毒患者だが、晩年になって「ショートホールのミケランジェロ」と呼ばれた設計の天才だけに、若いころから彼のパー3に対する執着は異様だった。自著に次のような記述がある。
 「ショートホールは、美食に用いる極上のスパイスであり、名文における絶妙な句読点と同じ意味を持つ」
 サニングデールの書記時代、土地使用の期限切れによって数ホールに手直しが加えられることになった。当初から彼のコースに対する愛情に感服してきた理事会では、大胆にも若き書記に設計を依頼する。これが巨匠ハリー・コルト誕生のきっかけだった。あるがままの自然を生かしながら、流麗にして過酷な線が次々に描かれ、過去にない戦略的なホールが初めてゴルフ史に登場する。とりわけ固執したのがショートホールの設計だった。
 「ゴルフとは、1ヤードの距離を真っ直ぐに打つのも難しいゲーム。ゴルファーを困らせるような設計は下品の一語に尽きる」改修が成功したことによって、彼は設計事務所の開設を決意する。画家志望だけに、彼の描くスケッチには名画の香りが漂うと評判だった。彼は全世界に70コース以上の名画を刻んだが、40歳を越えたあたりから多忙を極めて優れた助手の採用が急務となった。このときロンドン郊外のバッキンガムシャーにあったストークポージス・ゴルフクラブで書記をしていたのが後輩のチャールズ・ヒュー・アリソンである。
 ランカシャー州のプレストンで生まれたアリソンは、オックスフォード大学の造園学部に入学すると同時に、5歳のときから熱中してきたゴルフの腕に磨きをかけるため、ためらわずゴルフ部に入部した。大学3年になった1903年には代表選手としてアメリカにも遠征、このとき6勝無敗の成績を残す。全英アマでも優勝寸前、イングランド・アマでは優勝すること2回、1907年にはドリーマウントGCのドライビング・コンテストに出場して340ヤードの最長不倒距離も達成した。当時のヒッコリーシャフトと粗悪なボールを考えたとき、アリソンの飛距離には驚くしかない。