さて、1929年になって、ようやくゴルフが定着した日本にも本格的なコースが欲しいとの声が次第に高まってきた。そこでイギリス留学から戻った西本願寺の大谷光明が中心となって、折からロンドンにいた同盟通信の岩永裕吉社長に本場から一流設計家の招聘を打診する。手紙を受け取った岩永社長は、かねてから面識があったゴルフ狂の政治家、アーサー・バルフォア卿に話を持ち込んだところ、
「ためらわずに推挙出来るのは、いまハリー・コルト以外にいない。私が紹介するので真意を伝えなさい」
過分すぎるほどの善意によって、ようやく巨匠と面会するところまで漕ぎつけた。このときコルトは60歳、日本までの船旅が長すぎるという理由で断られたが、代案として彼は助手のアリソンの派遣を申し出た。
1930年(昭和5年)、船に乗って来日した彼は身長1.8メートル、中折帽に三つ揃いの服が良く似合う静謐な紳士だった。ところが温和な印象とは裏腹、長旅の疲れも見せずに翌日から駒沢の視察に出掛けると、その足で埼玉に向かってとんぼ返り、長靴を所望するなり原野の徘徊が始まった。彼が持参した測量器、分度器、方眼紙など、設計図用の一式が珍しく、好奇心の旺盛な接待役の大谷光明と赤星四郎はアリソンが寝るまで片ときもそばを離れなかった。
彼がコルトに匹敵する設計家だと判明するに従って、多くのコースから引き合いが殺到した。そうした依頼の中からまず広野GCの設計を引き受けたのは、途中の京都で名庭園の散策が出来ると考えたからである。ところが関西に向かって出発する寸前、大谷光明が川奈ホテルにコースを設計中と聞いて途中下車すると、そのままホテルに泊まり込んで全面的に手直しを開始した。
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ようやく腰を上げて関西に赴いたのが2カ月後、広野でも長靴姿で原野に分け入り、見事な18ホールのスケッチを描き上げた。そのあと待望の京都に滞在、本来の目的だった日本庭園の散策に熱中するが、とくに二条城と詩仙堂の庭園に漂う「わび、さび」の世界に深く感銘した彼は、広野と川奈の図面に手直しを加えた。日本滞在の最後に霞が関CCの改修工事も手掛けたが、このとき縁あって彼と遭遇したのが東の井上誠一であり、広野では西の上田治がアリソンから多くを学んだ。もし両者が緊密に連絡を取り合って設計に取り組んだならば、わが国のコース事情も大いに盛り上がったと想像されるが、どうやら設計とは一匹狼の世界、二人はついに口も利かなかった。
日本設計界に革命をもたらしたアリソンは、帰国直前、大谷と赤星に設計の基本を伝授している。
「コース設計は作曲と同じである。序曲から始まって、次第に多くの楽器とテンポが加わり、感動の中にもスリルとサスペンスが漂って聴衆を飽きさせない。そして最後に待ち受けるのが壮大なクライマックス。これらの条件が備わって、初めて名コースと呼ばれる。コース設計家の使命とは、与えられた地形から最大限の『上品』と『優美』を引き出すのが仕事である」
この言葉以上に、設計の理念を謳歌した定義を、私は知らない。
夏坂健(なつさか けん) 1936−2000
作家・翻訳家。
多くの新聞・雑誌に洒脱なゴルフエッセイを
連載。
毎年フランスで開催される「ゴルフ・サミット」
に、アジアからただ一人招聘され、海外
の雑誌にも寄稿している。また、35年間
シングルを維持するトップ・アマでもある。
主な著書に「地球ゴルフ倶楽部」、「フォ
アー!」、「微笑ゴルフ」、「されどゴルフ」、
「ゴルフへの恋文」、「騎士たちの一番
ホール」などがある。
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