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ゴルフ場黎明期の歴史と“今”
日本ゴルフコース設計者協会
理事 倉上 俊治
 

わが国最初のゴルフ場

わが国におけるゴルフの発祥は1901年(明治34)英国人貿易商アーサー・ヘスケス・グルームが兵庫県六甲山中に所有する別荘の隣接地に40万m2の土地を借り受け、4ホールのコースを造ったことに始まる。その2年後には9ホールとなり、1903年(明治36)2月27日、神戸商工会議所において「神戸ゴルフ倶楽部」の設立総会が開かれた。わが国初のゴルフ倶楽部の誕生である。この時の会員は120名(132名という説もある)で日本人はわずか7名であった。コース設計はグルームの友人であるスコットランド人のJ・アダムソンとJ・マクマトリーと言われている。18ホールになったのは1904年(明治37)で、全長3576ヤードのコースとなり10月に開場している。

当時のグリーンは、砂に油を撒いて固めたサンドグリーンであった。砂のグリーンは日々コンディションが変わる。この欠陥を補うためローカルルールが作られた。グリーンにボールが止まった位置からカップまでのライン上の砂は手で均すことができる。グリーンエッヂにボールが止まってパットができないときは、靴2足分だけ前に出すことができる。このようにアンフェアなグリーンの状態が改造されてコウライグリーンになるのは1933年(昭和8)で、ベントグリーンになったのは1948年(昭和23)である。

1944年(昭和19)に戦争のため閉鎖され、終戦後の1946年(昭和21)3月に米軍に接収されたが1952年(昭和27)2月に解除された。このように神戸GC六甲コースは開場以来伝統と格式を守りながら、多くの困難を乗り越え現在に至っている。日本のゴルフコースの起源がはっきりしているのは、KGC六甲コースが106年経過した今も昔のままの姿で残っているからであり、日本が誇るゴルフの文化遺産として後世に伝えて行かなければならない。

2番目に古いゴルフ場

初のゴルフ倶楽部が誕生した翌年、1904年(明治37)に兵庫県武庫郡魚崎横屋に6ホールのフラットなコースが造られた。日本で2番目のゴルフコース、横屋ゴルフアソシエーションである。設計は英国人ウイリアム・ジョン・ロビンソンで、グルームの息子名義の土地を借りて造られた。KGC六甲コースの使用期間は4月から11月なので、冬期の代わりに利用されたのである。全長1196ヤード、パー21、グリーンは砂を固めたサンドグリーンであった。このコースの隣に住み、自宅の一部をクラブハウスに提供したのが福井藤太郎であり、ロビンソンの専属キャディをしていた次男覚治は、後に日本人初のプロゴルファーになる。しかしこのコースはグルームが土地を他人に売却したため、わずか10 年で姿を消した。

3番目に古いゴルフ場

関東初のゴルフコースの誕生は1906年(明治39)11月23日。横浜市本牧・根岸競馬場内の広さ16・8ha(5万坪)にF・E・コルチェスター、G・ブラディーの設計で9ホール、全長2473ヤード、パー33のコースが造られた。これが「日本レースクラブ・ゴルフィング・アソシエーション」(NRCGA)で、グリーンに日本芝を使用した最初のコースである。横浜は在留外国人が多く、洋式競馬が盛んで1862年(文久2)には「横浜レース倶楽部」が設立された由緒ある競馬場である。この倶楽部の記録がないのは、戦時中日本軍に接収されたとき、一切の記録が焼却されたためだ。KGC六甲コースとは対照的であり、ゴルフ史の欠頁となっているのはまことに残念である。また、このコースは外国人専用で始められ、日本人会員であった大谷光明も後に退会してしまうなど、日本人に排他的な気風の強い倶楽部であった。日本で3番目のゴルフコースは1943年(昭和18)6月、競馬場と共に閉鎖され、翌年日本軍に接収されて印刷工場となった。終戦後、印刷工場は米国第8軍に引き継がれ、1946年(昭和23)に9ホール、全長1986ヤードの米軍専用ゴルフ場として復活した。その後も引き続き利用されたが、1969年(昭和44)11月に接収解除となりゴルフ場も閉鎖された。

1977年(昭和52)横浜市は、この地の14万2354m2を公園とし、中央競馬会は2万4000m2を競馬記念公苑として残している。

4番目に古いゴルフ場

長崎県営雲仙ゴルフ場は1913年(大正2)長崎県南高来の雲仙公園内に造られた。設計はメイ、バックランド、ウォレス、ダイクマンの4人で、公園課長の鈴木格吉がコースを建設した。9ホール、全長3200ヤード、パー39、日本初のパブリックコースである。ゴルフ場ができた経緯は雲仙が温泉保養地であり、外国人を誘致すべく1911年(明治44)4月に県知事代理内務部長、秦豊助(当時、知事は海外出張中)が県会に諮って県立雲仙公園の設置を決定した。それ以前の明治33年と38年に東京帝国大学名誉教授ベルツ博士から温泉保養公園の開発を進言されていた。県立雲仙公園の敷地は18万8730m2あり、公園計画に意見を求められた植物学者松村任三理学博士は「西洋にはゴルフというものがある。この公園の中にゴルフコースを設置したらいいだろう」と進言した。これを受けて県当局は長崎在住の外国領事、香港上海銀行支配人などに意見を求めたが、皆これに賛成した。

その後、ゴルフ場や公園の運営がうまく行かなくなり1921年(大正10)、時の渡辺知事がかつて雲仙を外国人に紹介してくれたマレー駐在のトーマス・クック社東洋総支配人のC・H・グリーンにゴルフ場の発展策を、また明治神宮造営局技師、折下吉延に公園の改善策を諮問した。グリーンはゴルフ倶楽部の創設を、折下は温泉神社の改修と公園施設の充実を進言したのである。かくして1922年(大正11)、「長崎ゴルフ倶楽部」が結成され、在留外国人を含めて140人の会員が集まった。倶楽部発足の1年後に「会報」が発行され、倶楽部競技も行われた。

雲仙ゴルフ場は最初からパブリックとして造られ、外国人のイニシアティブではなく日本人の発起で造られたことは特筆すべきことである。このコースは今日でも長崎県営のパブリックコースとして利用されており、六甲コースと共に歴史的価値の高いコースである。

ゴルフコース黎明期の4コースの歴史を見ると、当時の日本人にはゴルフに対する知識がなく外国人中心の開発であった。共通して言えることは用地や建設資金、工事技術、クラブ運営、コース管理等多くの課題を抱えながらゴルフコースの開発、運営が手探りで行われたことだ。しかし1920年代になると外国に留学してゴルフを学んだ名手達がコース設計を手がけるようになった。さらに特筆すべきは1930年(昭和5)12月に英国からチャールズ・ヒュー・アリソンが来日し東京GC朝霞コース、廣野GC、川奈ホテル富士コースを設計し、霞ヶ関東コース、茨木CC、鳴尾猪名川コース、宝塚GCの改造案をまとめたことである。そして、アリソンの案内役を務めて多くのことを学んだ大谷光明、赤星四郎・六郎、藤田欽哉、井上誠一、上田治、上西荘三郎、伊藤長蔵らが後年、名コースを次々と設計していくのである。

最初のゴルフ場の誕生から1940年(昭和15)までの間に90コースが造られた。そのうち現在も残るのは39コースである。戦後日本は奇跡的な経済復興をとげ、それと共にゴルフ場も2359コースまで増えた。今後これらのゴルフ場を健全に発展させ、時代に適応したコースに改造していくのは、ゴルフ場関係者やコース設計者の当然の役割である。

 

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