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最終回 加藤俊輔氏の尽力で設立した協会と設計者のこれから
 

「21世紀ゴルフへの提言」と題し2003年1月号よりスタートし、15年にわたった連載も、今回で最終回となる。そんな最終回を迎えるにあたり、奇しくも日本ゴルフコース設計者協会初代理事長・加藤俊輔氏の訃報である。
4月18、19日の両日、協会主催である研修会が茨城県の宍戸ヒルズCC、大洗GCで開催されていた。正会員、そして協力会員の約40名が参加していたが、その1日目の夕食時に、川田太三理事長より訃報がもたらされたのだ。17日に亡くなった、と。加藤氏は1933年11月12日生まれだから、85歳を待たずに旅立ったわけだが数年前から体調は思わしくなく、2014年10月には協会に『退会届』を提出して正会員から外れていた。しかし、設立時から協会への功績は大きなものがあり、退会後は名誉理事として名前を残していた。
本連載でも何度となく登場し、設計論に限らず、ゴルフ界への想いを綴っていた。最後の掲載は15年3月号で、コース改造設計のオピニオン・プラザ「JFE瀬戸内海ゴルフ倶楽部」であり、リンクスコースの当該コースへの改造の意図を語っている。この取材は15年1月に帝国ホテルのラウンジにて行われたが、やせた姿が同席した協会・前田篤事務局長の印象に残っている。取材が終わった際には「オレももう長くはないよ」と、弱音とも本音ともつかぬ言葉を口にして、インタビュアーの西澤忠氏と握手をして別れていた。
「加藤さんが手を挙げて立ち上がらなかったら、今ある協会そのものの存在はなかったはず。加藤さんは1992年の春ごろから動いていたように思う」と、創設時から関りがある川田理事長は言う。
ゼロからのスタートであり、一匹狼の設計者を纏めようというのだからパワーもいる。そうまでしても、設計者の団体を立ち上げたかった理由はなんだったのだろうか。「欧米を中心としたゴルフコース設計者たちは社会的にも評価され尊敬されて、設計者としての確かな地位が認められていることが多い。反対に外国人による設計の多いゴルフ後進国の日本では、アーキテクトとしての存在を認められていないと言える」(07年3月号・21世紀ゴルフへの提言にて)
アメリカ、欧州、豪州などには設計者協会があり、社会的に認知されていることを見聞きしており、忸怩たるものがあったのだろう。
日本にも設計者は多く、ゴルフ場の新設も多かった時期である。設計者の社会的地位の向上、互いの研鑽などを頭に描いていたようだ。有志に声をかけ、設立準備委員会を作り、会合を開いている。ちなみに、川田氏の93年の手帳には1月22日、3月12日、4月5日、同月19日と、カトーインターナショナルのオフィスで準備委員会の会合が実施されたと記されている。そして、同年6月3日に59歳の加藤氏を理事長に、金田武明副理事長、5名の理事、2名の監事など19名の正会員で産声を上げている。ほかに、佐藤昌氏ら5名の名誉会員も名を連ねている。

太平洋クラブ御殿場コースで脚光

加藤氏は日本大学工学部卒業だが、在学中にすでにゴルフに熱中しており、大手ゼネコンに入社したころにはハンディ2の腕前だったようだ。シビルエンジニアとして活躍してゴルフ場の施工にも携わり、太平洋クラブの設計部に転じて軽井沢コース、高崎コース、益子コース、そして御殿場コースと、自社コースの開場に関わっている。その後、独立して次々と国内外のゴルフ場設計に情熱を注いでいる。「自然との共存・協調、自然から得たものは自然に返す」を設計ポリシーに、その数は国内外で優に70を超えた。80年代から90年代のバブル期には、時代の寵児として脚光を浴びている。「年間10コースオープンした年や、7コースを同時期にデザインした時もあった」と、加藤氏は当時を振り返った。
「当時、インターンナショナルツアーとして太平洋クラブマスターズで海外のトッププロが技を競い合っていました。その舞台が御殿場コースであり、加藤さんに注目が集まり、いわば設計者のスターになった。作風がそれまでの箱庭、林間とは違って、大きな池や枕木、大きなポテトチップのようなグリーンと、一方で注目されていたピート・ダイ風でもあった。作風に関しての好き嫌いは個人の感じ方で別の話だが、手掛けた数の多さは、まさに別格。井上誠一、上田治のあと、名前で通るのは加藤俊輔氏1人でしょう」と、川田氏は語る。
太平洋クラブ設計部長時代に知り合った佐藤謙太郎副理事長と倉上俊治理事には「リンクスコース」が印象に残るという。
「当時、伊豆ゴルフ倶楽部の設計をしていた先生は『ゴルフコースの原点はリンクスにあり!日本のコースもワングリーンであるべきだ』というコンセプトで、私は共感を覚えた1人で自らのコース造りにも生かしてきました。その信念は、その後の日本近代コースの基となり、多くの設計者に影響を与えました」(佐藤副理事長)
「私の恩師である佐藤昌教授と一緒に会い、その独自のコース設計論はそれまでの概念を打ち破るもので、衝撃を受けたことを覚えています。1998年にはスコットランドリンクスコース視察旅行に誘われ、19日間先生から説明を受け多くを学びました。晩年も、リンクスコースへの強い思い入れは変わらず、まさに加藤ワールドを築いた巨匠でした」(倉上理事)

コース改造・改修で生き残りを

加藤俊輔氏が立ち上げた当協会は、今年の6月に25周年を迎える。この間、社会的認知も広がりゴルフ場関係者のみならず、弁護士、役所などからも問合せや相談が舞い込むようになった。「テレビ局からゴルフ場の設計について説明をしてほしいとの依頼もあります。ゴルフ場に限らず、対外的な窓口になっています」と前田事務局長。とは言え、本筋であるコース設計に関しては厳しい現実がある。
2000年代に入って新設コースが幾つか開場しているが、これは80〜90年代に産声を上げ途中頓挫したものを新たなオーナーが引き継いで成し遂げたもの。新たに計画されているものは皆無といってよい。設計者として力を発揮する場がない。そうした現状では、新たな設計者の誕生も厳しいものがある。協会としては、既存コースの改造、あるいは改修へとシフトせざるを得ない。
「半年クローズしての大規模な改造でなくても、例えば少しずつでも改良、維持工事をしていく。今はオーナーもどんどんと交代しており、原図がないゴルフ場も多いでしょう。設計のことを理解しているとは限らないので、協会が積極的にアドバイスしていければと、考えているところです」(川田理事長)
経営交代して、その後『ゴルフ場クローズ=太陽光ソーラーパネル』という図式の中、生き残るためにはゴルフ場の商品価値を高めるしかない。その第一が、コースの改造であり改修だろう。すでに、コース改造や改修を実施しているゴルフ場も散見されるが、全体からすると僅かだ。中には、ホームページなどにコース設計者を明記していないところもある。
「欧米では必ず設計者、あるいは改造者の名前を明記しています。日本でも設計者、改造者の名前を忘れずに明らかにしてほしいものです」と、川田理事長は訴える。
 名前が出れば、それだけ社会的な責任を負うことにもなる。設計者への自覚にも繋がってくるはずだ。最後に川田理事長はこう締めくくった。
「これからも、日本ゴルフコース設計者協会はゴルフ界発展のために微力ながらも寄与する団体であり続けたいと思います。そしてこの15年間、本連載を愛読していただいた読者諸氏に御礼申し上げます」

 

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