日本ゴルフコース設計者協会
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コース設計のはじまりBeginning

ゴルフコース設計のはじまり

撮影 秋山真邦

「コース設計は改造(改修)から始まった」といわれています。では誰が最初にどのようなコース改修を行ったのか、またコース設計の言葉(概念)はいつごろ生まれたのか、これらを検証するにはまずコース改修の歴史を調べる必要があります。 ゴルフコースの発祥は定説としてはスコットランドのエジンバラに近いギラン・ヒルのリースリンクス(ムニシパルの5ホール)が有力で、1491年に発令された国のゴルフ禁止令の文章がその根拠になっています。
そしてリンクスとはもともと海と陸地の境の海岸部分を指す言葉ですがスコットランドではリンクス区域全体がコモンと呼ばれる共有地になっていました。普段は一般市民憩いのスポーツ広場として使われており、その中にゴルフコースもあったためゴルフ場の同意語として今も使われています。リンクスコースはマザー・ネイチャーからの贈り物「神が創り給うたコース」と言われ地元では聖地化されており当然設計者などはいません。

アランロバートソン アランロバートソン(1815年-1859年)

英国の設計史には最初のコース改造がセントアンドリュース(オールドコース)で行われた経緯が記されています。オールドコースでは最初の改造は1764年にそして2回目の改造が1848年から2~3年の時期に、当時セント・アンドリュースのプロ・ゴルファーだったアラン・ロバートソンによっておこなわれた記録が残されています。内容はオールドコースの幅を広げ、同時に1番グリーンから切り離して有名な17番「ロードホール」のグリーンをつくりました。この改造でオールドコースの今の形が出来上がったと言われ、このことから「ゴルフコース設計の歴史はアラン・ロバートソン」から始まったと言われています。
このように当時のコース改修工事はゴルフ職人(裏方)の役割だったようです。そして当時行なわれていた実際の工事内容は、今私たちが考える程の大規模な造成工事ではなく現状コースルーティングを見直しながら、周辺の灌木を刈り広げホールの拡張整備する程度だったと考えられます。手法も職人(キーパー)の経験をベースとしたオーラルヒストリー(口述継承)で行われ、コース改修工事の指針となるコース設計の概念すらありませんでした。
ところが1894年前触れもなくゴルフの世界に「コース設計」の言葉が登場します。
コース設計を一つの学問ととらえ確立すべきであるとの考えを最初に提唱したのがケンブリッジ大学のハープ・ジューンズ教授でした。「コース設計」を一つの学問として確立させ、全方向から研究を重ねるゼミナールの提案でした。この研究ゼミナールに賛同したのがトーマス・シンプソン、ハリー・コルト、アリスター・マッケンジー、チャールズ・ヒュー・アリソンなどの当時のアマゴルフ界の代表選手20名でした。
このゼミナールこそがコース設計の原点になるのです。後に彼らはゴルフコース設計家として不動の地位を築き、ゴルフ場造りのオピニオンリーダーとしてその役割を果たしていくことになります。

ハリー・コルト

ハリー・コルト(1869年-1951年)

この20名の中の一人、ハリー・コルトについてゴルフ史家の大塚和徳氏(名誉縁故会員)はこう述べています。

「ハリー・コルトは、コース設計の世界では様々な点でパイオニアだった。そのため彼は「近代設計の父」と呼ばれる。その第一はプロゴルファーでない最初のコース設計家だったことである。彼はスコットランドのゴルフ職人の経験に頼る原始的な方法にきっぱりと別れを告げ、イングランドのインテリ設計家として新しい領域を確立した。
第二は設計に図面を使い始めたことである。彼は高低差を表す図面を使って綿密に検討した上でコース・レイアウトの基本となるルートプランを描いた。これは現場主義、経験主義の当時としては革命的なことだった。アリソンが朝霞コースの設計をした時は帝国ホテルの一室に約一週間閉じこもり外部との接触を一切断って、図面と向かい合って仕上げたといわれている。廣野のルートプラン作成の時も同様だった。これはコルト方式の延長といえる。第三は内陸コースを幾つも手掛けたせいもあって、リンクスにない樹木に関心を持ったことである。ゲーム戦略のために樹木を使用することはなかったが、プレー環境の修景の為の植樹の必要性を認識していた。」

(大塚和徳著ゴルフの五番目の愉しみより)

後にコルトは、マッケンジー、アリソンの三人(後にモリソン参加)で設計事務所を設立しアメリカを中心に本格的にゴルフ設計・建設の仕事に取り組んでいきます。
アリソンは1930年に来日し東京ゴルフ俱楽部(朝霞)、廣野ゴルフ倶楽部、川奈ゴルフコース(富士)の設計を行っています。

ゴルフコースデザインは芸術である(アリソン) アリソンは1931年2月の朝霞コース現地調査の時、同行した会員(白石多士良氏)の質問にコース設計と設計者の立場について次のように答えています。
アリソン氏と段々折衝していると氏の態度は技師という立場ではなく、全く芸術家の態度を以って、設計と云うよりもゴルフの絵を描く云う風な感を与える。「私はこの仕事に依ると何立米の土を動かさねばならぬか」質問したら氏の返事は「私はそういうことは存じません。私の仕事は唯此図面を描いて差し上げるだけです。」と答えすなわちゴルフコースの建設工学的方面は彼の関するところではない。彼は芸術家としてコース全体としての或気分を出すことが彼の仕事である。ゴルフアーキテクトは芸術家として、芸術家の立場に立って居るから、コース候補地に行って、一目土地を見たならば頭の中に、18ホールの設計が浮かんでくるような、芸術的才能がある人でなければ到底仕事は出来ない。

チャールズ・ヒュー・アリソン

C・H・アリソン(1882-1952年)出典 日本ゴルフコース設計者殿堂

茨木カンツリー倶楽部

画像提供 茨木カンツリー倶楽部