写真提供 神戸ゴルフ倶楽部
日本のコース設計の歴史History
日本のゴルフ場の誕生

サンドグリーンとクラブハウス(1904年)
写真提供 神戸ゴルフ倶楽部
1901年(明治34年)日本で最初に誕生したゴルフ場は4ホールのゴルフ場、兵庫県の神戸ゴルフ倶楽部です。今から遡ること120年、神戸の六甲山に英国のA・H・グルームによって造られました。そして2番目に出来たゴルフ場が、1904年(明治37年)の神戸灘区の横屋ゴルフアソシエーションです。横屋は神戸ゴルフ倶楽部の創立メンバーでもあった英国のウイリアム・ジョン・ロビンソンによって造られた6ホールのゴルフ場で残念ながら現存していません。しかしその後1914年(大正3年)に鳴尾ゴルフアソシエーション(横屋コース/鳴尾浜)、1920年に鳴尾ゴルフ倶楽部(鳴尾浜コース)と名称をかえ、1930年(昭和5年)に現在の鳴尾ゴルフ倶楽部(猪名川コース)へとその歴史は受け継がれています。3番目に出来たゴルフ場は、1906年(明治39年)横浜本牧・根岸競馬場内に造られた9ホールのニッポン・レース・クラブ・アソシエーション(NRCGA)です。特徴は当時主流だった六甲、横屋のサンドグリーンと比べ、競馬場の芝敷を利用していたため日本で初めてグラス(芝草)を採用したゴルフ場でした。このコースも1943年(昭和18年)に閉鎖され現存していません。
日本ゴルフ草創期といわれる明治34年から昭和元年までの間に、神戸GCをはじめに雲仙ゴルフ場、東京GC、富士屋ホテル仙石GC、旧軽井沢GC、垂水GC、鳴尾GC、程ヶ谷CC、茨木CC、宝塚GCまで約10カ所のゴルフ場が造られています。
日本人による日本人のための
ゴルフ場
1913年(大正2年)になると当時の実業家や華族、海外経験者によってこれまでの外国人向けではなく日本人同士でのびのびプレーできるゴルフ場を作ろうと機運が高まり、東京ゴルフ会が設立されます。そして1914年(大正3年)6月、元蔵相の井上準之助らを中心に東京府荏原郡駒沢村(現東京都世田谷区駒沢)の3万坪余の土地を借り受け、日本人メンバーによる最初のゴルフコース、東京ゴルフ倶楽部が誕生することになります。コースの規模は当時6ホール(後に9ホール2300ヤード)、ティーグランドからグリーンまで芝が張られており、「日本のセント・アンドリュース」と云われました。
当時、他のゴルフ場のコースは全面芝ではなくサンドティー・サンドグリーン、雑草と小砂利のフェアウエイで本場のゴルフ場の姿とは程遠いものでした。駒沢ではその後、1918年(大正7年)に日本アマチュア選手権、1921年(大正11年)4月には当時皇太子だった昭和天皇と英国のプリンス・オブ・ウエールズとの親善試合がおこなわれています。
このように東京ゴルフ倶楽部の誕生が日本人のゴルフに対する認識を変え、関西をはじめ全国に外国人に気兼ねなくプレーできるゴルフ場が造られ、徐々に日本のゴルフ環境が整っていくことになります。
その後東京ゴルフ倶楽部は場所を埼玉県の朝霞、さらに狭山へと移転することになりますが、特に朝霞移転は日本のゴルフ界も含め「コース造り」の大きなターニングポイントとなっていきます。
日本のゴルフコース設計の父
当時の日本のコース造りにはコース設計(図)の概念がなく、倶楽部によって選ばれたメンバーが作り手となり、独自に経験的イメージを描き、それを直接現場で指示・指導する手法がとられていました。
そこで東京ゴルフ倶楽部が駒沢から新天地の埼玉県朝霞の膝折村に移転する1930年(昭和5年)頃から、大谷光明氏を中心とした会員の間で新たなコースはこれまでの素人設計家ではなく本場英国の専門家に任せようとする機運が高まります。
そして当時ゴルフコース設計界の巨匠と称されたハリー・コルトに白羽の矢を立てるのですが、結果的には弟子のアリソンを招聘することになります。そしてこの代理設計者の来日が日本のコース設計界に大きな影響をもたらすことになります。

朝霧コースを設計したC・H・アリソン出典 日本ゴルフコース設計者殿堂
1930年(昭和5年)12月に来日した英国人コース設計家チャールズ・H・アリソンは、東京に着くと直ちに朝霞に赴き、前もって用意された縮尺1,200分の1の地図と照合しながら現地の地形を検分したあと、すぐに帝国ホテルに10日間閉じこもり一歩も外出せずに図上設計を完成させます。設計図にはルートプラン、ホールティテール、そしてグリーンデザインが3部構成で詳細なタッチで描かれ、それぞれに指針が簡潔かつ丁寧に書きこまれています。
(図面は現在廣野CC内にあるミュージアムに保管)
当時日本にコース設計の概念とコース造りの実践を伝授したアリソンの設計図は、それ自体が貴重な仕様書であり解説書でもありました。
滞在した約4か月の間に東京GC(朝霧コース)の他に、廣野GC、川奈ホテルGC(富士コース)を設計、あわせて霞ケ関CC、鳴尾GC、茨木CCなどの改造案も作成しています。そしてアリソンが帰国した2年後の1932年(昭和7年)、朝霞コースが完成します。クラブハウスはチェコのアントニン・レーモンド設計による白亜のモダンな建物でした。
そしてアリソンは設計図だけでなく、さらにもう一つの貴重な足跡を残して帰りました。それが工事監督として残ったジョージ・ペングレースの存在でした。
彼はアリソン専属のシェーパーとしてアメリカから同行し、アリソン帰国後も東京・霞ケ関の工事全般に携わっています。つまり彼がコース造りの実践を見せてくれたのです。
また当時川奈で病気療養をしていた井上誠一(後のコース設計家)は、偶然現地でアリソンと出会いそのあと現地での通訳兼助手をつとめています。その後彼は希望して工事中の霞ケ関CCの職員となり、その時の工事監督ジョージ・ペングレースから直接ゴルフ場作りの手ほどきを受けることになります。
このようにアリソンは、産声を上げたばかりの日本にコース場の造りの「設計手法」だけでなく「造り方」までを伝授して帰国したのです。そして彼が日本のコース設計界に残したこれらの遺産はその後赤星四郎、伊藤長蔵、そして、井上誠一、上田治など若い世代の設計家へと受け継がれていくことになります。
このことから「日本ゴルフコース設計はアリソンから始まった」ともいわれています。
ツーグリーン
日本のゴルフコースの歴史を語るとき「ジャパニーズスタンダード」といわれる2グリーンの誕生について知る必要があります。
神戸ゴルフ倶楽部のグリーンがサンドからグラスに移行した1930年(昭和5年)頃から日本のゴルフコースは高麗芝の1グリーンが主流となっていきます。その後ベント芝の1グリーンのコースが造られるのは1932年(昭和7年)に開場した東京ゴルフ倶楽部(朝霞コース)からです。
朝霞コースはイギリスから招聘したアリソン指導の下、当時完成したコースはフェアウエイ、グリーンがすべて緑のオールベント芝で仕上がっておりその美しさから「東洋の真珠」と絶賛されたゴルフ場でした。
しかしこのグリーン(クリーピングベント)が1936年(昭和11年)の夏の暑さ(ブラウンパッチ)と冬の霜柱で見る影もなく全滅してしまったのです。同時期に施工していた霞ケ関CC(東コース)、相模原CCも同様でした。
なぜ芝が枯れてしまったのか、その原因は当時の洋芝が日本の自然環境に合わず、さらに管理技術の遅れも手伝いその保全対策が出来なかったからです。生育環境の違い、つまりトランジション・ゾーンの難しさを急激に体験したのが日本のゴルフ界だったのです。当時の日本には芝の学術書すらありませんでした。(USGAのグリーンセクションが正式に発表されたのは1960年)そして年間を通しベントグリーンのクオリティをいかに保つか、倶楽部のメンバーの苦悩が始まります。そしてとりあえず現状のベントグリーンに隣接して夏季対応グリーンの高麗芝を作るという現実かつ即応的な対応策でした。
具体的には、夏場の高麗芝、冬のベント芝(サブ)というように季節によってグリーンを使い分ける考え方です。これが2グリーンシステムの始まりです。その後50年間「ジャパニーズ・スタンダート」となって続くことになります。
そして当時この一連の2グリーン化作業の中心を担ったのが井上誠一でした。そしてこの改造工事が日本での「コース改修」のはじまりとなります。
その後、日本のゴルフ界はリノベーションの時代に入り、同時に草種の新種改良、メンテナンス技術の革新を背景に今は再度1グリーンに移行すべきかその判断の過度期にさしかかっているようです。
コースの復興
コース改修の歴史はスコットランドのリンクスから始まったと云われていますが、しかしそれはホールの部分的改修が中心でした。本格的なコース改修、改造の歴史はアメリカのゴルフ場復興から始まっています。
アメリカでは1929年(昭和4年)の世界恐慌から第二次世界大戦が終了した1945年(昭和20年)までの16年間に閉鎖あるいは放置されたゴルフ場を再生、復興する動きが出てきます。しかし1940年(昭和15年)以前に活躍したチャールズ・マクドナルド、ヒュー・ウイルソン、アリスタ―・マッケンジーなどの名設計家の多くはすでに世を去っており、まさに新しい設計思想によるコース復旧が求められるようになります。コース改造を担う新たな設計家の登場と新しい設計理論が求められる時代に入ったのです。1930年代は新規のコースを造る仕事がなくなった設計家にとってコース改造という仕事で一応忙しかった時期だったことが想像できます。
そして当時アメリカで最も注目されたのが、1946年(昭和21年)から始まったオーガスタナショナルGCの改造であり、手掛けたのはロバート・トレント・ジョーンズでした。特に11番12番13番の改修は現在のアーメンコーナの原形を作ったと言われ、そのデザイン手腕が高く評価され、トレント・ジョーンズの名前とコース設計家として能力が広く認められることになります。
その後アメリカ、イギリス日本といったゴルフ先進国ではコース設計家の主要な仕事は新設ではなくコース改造に主眼が置かれていくことになります。

井上誠一(1908-1981)写真左
上田治(1907-1978)写真右
出典:日本ゴルフコース設計者殿堂
日本のゴルフ場の復興は戦後の1950年(昭和25年)頃から始まります。
戦時中ゴルフ場は全て閉鎖され、コースに樹木はなく農耕地に開墾されていました。しかし戦争が終り、アメリカ軍接収中もコース復旧に向けた作業が倶楽部関係者によって辛抱強く行われていました。そして滑走路跡だった廣野は1949年(昭和24年)に、霞ケ関CCは東コースが1952年(昭和27)9月に、続いて西コースを2年後に完成し36ホールを再開します。そしてこれら戦後のゴルフコース復旧工事の中心を担ったのがアリソンの薫陶を受けた赤星四郎、井上誠一、上田治達でした。同時に初めて日本に新たに職業コース設計家が誕生することになります。
さらに戦前の名門といわれたコースの復旧に一区切りがついた1955年(昭和40年)ころから第1次ゴルフブームがスタートします。さらにゴルフ場づくりにも変化があらわれます。今までの職人気質のゴルフ場づくりから大手ゼネコンによる大規模工事によってゴルフ場の数が急激に増えていきます。
そして1957年(昭和32年)に開催された霞ケ関CCカナダカップが日本初のテレビ実況放送さると一般の人たちにもゴルフというスポーツが広く知れ渡ることになり、さらに大衆化に拍車をかけていきます。
アメリカンニューウェーブの上陸
1970年代に入ると日本でも高度成長期のゴルフブームが訪れます。ゴルフ界の外国人設計家による通称「アメリカンコース」の輸入が始まります。言い換えると巨大なアメリカゴルフビジネスの上陸です。そして日本で最初にこのアメリカゴルフ文化の洗礼を受けたのが「軽井沢72」でした。

© 株式会社西武・プリンスホテルズワールドワイド
ゴルフ場計画は西武グループによる南軽井沢総合開発の一環でそのゴルフ場中心の開発規模の大きさと外国人設計者の起用が話題となりました。コース設計者は、当時世界に300箇所のゴルフ場を造りアメリカコース設計界の第一人者と云われていたR.T.ジョーンズSr.でした。
設計(計画)を依頼された、ジョーンズは1969年6月に来日しその記者会見の席で72ホールを取り込んだマスタープランのプレゼンテーションを行ないます。そして3年後の1972年、スケール日本一のアメリカンリゾートタイプのゴルフコースが開場します。(”72”の名称はここからきています)
出来上がったコースはこれまで日本になかった常緑のフェアウエイを持ち、グリーンに絡んだ大きく美しい池、そして白砂が輝くバンカーなどニューデザインのランドスケープが際立っていました。また最新技術を導入した効率的なコース造りにも驚かされます。
工事監督は全てアメリカ人で各工種の専門家が行い、補助作業のみをゴルフ場のコース管理スタッフが手伝います。具体的には今まですべて人力で作られていたグリーン、バンカーなどが全てブルドザーで作られ、コース全域に全自動のスプリンクラー、播種(ベント芝)によるエバーグリーン化です。当然この工事手法が話題になり全国からから多くの関係者が見学に訪れました。そしてこの時初めて日本人スタッフは「マウンド」「シェーピング」「メンテナンス」「自動散水」等のゴルフ専門用語を耳にすることになります。
そして開場後もゴルフ場は軽井沢の観光名所の一つとなり巡回バスまでが来るようにまでなります。このように日本人のゴルフとゴルフ場の意識を変えるさきがけとなったのが新興のパブリックコース「軽井沢72」だったのです。
その後日本では1987年にリゾート法が制定されるとゴルフ場造りが一気に活気づき、ジャック・ニクラウス、ピート・ダイ、ロバート・ボン・ヘギー、R・T・ジョーンズJr.といった有名設計家によって個性的なゴルフ場が造られ、日本のゴルフ場造りにも変化が現われます。日本人設計家によって今までの「ジャパニーズクラシック」から「ジャパニーズ・アメリカン」スタイルの多くのゴルフコースが作られていきます。
新設から改修へ
2000年代に入ると2008年9月のアメリカのリーマンショックの影響を受け、日本の経済バブルが崩壊したことでゴルフ場の倒産が相次ぎます。主な原因は会員権の償還に関連した資産の不良債権化高齢化等によるゴルフ人口の減少です。多くのゴルフ場にとってその対応に追われる苦境の時代が始まりました。
2025年の時点で日本には2,110箇所のゴルフ場がありその中で開業50年を超えるゴルフゴルフ場は全国に1000コース程になります。
今これらのゴルフ場は一様に施設の経年劣化が進み、その弊害は特にクラブハウスに顕著に現われ、資金に余裕のあるゴルフ場は建て替えへ、あわせて外国人設計者によるコースの大規模改修などの対応が図られていますが、余裕のないところは部分補修・修繕のみに頼らざるを得なくなります。これらの動向は今後残されたゴルフ場すべての共通課題です。まさに今後はゴルフ場全体のリニューアルの時代に入ることを物語っています。